水原市響、チャイコフスキー交響曲 6番“悲愴”完璧な曲の解釈で喝采
水原市民はキムデジンと水原市響の存在で幸せな夜と向い合った(2013年11月11日)。チャイコフスキー交響曲6番4楽章を終わらせた後、コンダクターキムデジンは指揮奉をおろして、30秒間一息を入れる。絶頂の演奏を見せてくれた自尊心が何より輝く瞬間だ。胸いっぱいの感動は観客たちの歓呼や拍手として返られた。渾然一体になった団員の顔にも感動が走る。そのように水原市響のチャイコフスキーサイクルは長い旅程を締め切った。水原市響は、チャイコフスキー交響曲をまもなくアルバムにする予定である。物足りないが、鑑賞評を載せる。 <編集者註>
1st movement : Adagio – Allegro non troppo
バスーンが管弦を覚ます。あまりにも重過ぎる。クラリネットとともに弦が切なく泣いていく。プロットとチェロの穏かな緊張。高まってはまた沈んでプロットが吟ずる. 平穏の中、哀れな愛の影が近寄る。
トロンボーンとともに太鼓が響き渡り、波がうねる。チェロの細い音が二度と来ないこの平穏にお別れを告げるように、目の眩むおぼろげな恋歌を歌う。
その隙間からクラリネットとバスーンが交互に音を出し、またトロンボーンはか細いスライドを長く抜く。
繰り返される切ない思い。試練、悲しみ、哀傷をすべて抱いた。荘厳溢れるが、それではないと首を横に振って素直に受け入れなさいという矛盾。このぎこちなさが消えるごろ、静かに闇の中から管弦が起きて、すべての煩悩や未練を燃えつくすかのように激怒の海が広がる。
絶頂は一息を入れては、また切なく繋がる三番目の節。悲しみもこのように高慢な自由を享受することができるか。
私たちは数え切れない海の中に限りなく沈む。暗鬱な静寂の中、偉大なる叫び声だ。弦がさえずり、新しいドアが開きながらホルンは重く退場を知らせる。
2nd movement : Allegro con grazia
チャイコフスキーは回航している。彼は死の足跡を運んでもうなったばかりの二十の青年になる。すべての万物はときめきで不慣れだがひたすら美しい。
チャイコフスキーは絶望と悲しみさえ、そもそも存在しなかったと笑っているが目もとはしっとりと涙で濡れている。
3rd movement : Presto: Allegro molto vivace
息が急く。美しくて悲しい。この単調さは激昂された心を寝かせようとする '倒置'である。
足を立たせ起きようとするが、何かわからない力によって座りこむ。生きなければならない、生きて行かなければならない懦弱な人間の逆説である。しかし、チャイコフスキーはまだ搖れなかった。
4rd movement : Finale: Adagio lamentoso – Andante
歎息も埋まってしまった。冷たく固くなったほほに涙が擦れる。忍耐の限界のなかで、人間の言語では何と表現することもできないもう一つの悲しみと向い合う。
それでも真っ直に立ち、違うという。首を横に振りながら否定しているが、左側の胸の痛みは、熱された肺腑の中でもっと苦痛に追いつめられている。
いや、痛みを感じる前に鋭いその何かが弱い肉体をくぐって青春の心臓を刺したのだ。孤独と悲しみの果てのない絶対な悲恋。人間が出すことのできる五感の川を渡って、我々はもう一つの悲しみの川と向い合う。
そもそも悲恋の意味を問うのは仕方ない事だった。
"そこには、自分もない、愛なんかとっくにない、だから悲しさもなかった。"